コラム

やめよう、「がんばろう日本!」

今回の震災直後から言われ始めたのが、

  「がんばろう日本!」

であった。

東北地方ではじめて行なわれたプロ野球の試合にも、ある大国の駐日大使が始球式に乗り込んできて、マイクを握り、

   「ガンーロ ニポン! ガンーロ トホク!」

と大音声でのたまった。

「ガンーロ」の「」にアクセントを置くその発音は、
まるでイタリア語かスペイン語みたいに聞こえ、
パスタやパエリャの名前を思わせたものだった。

大使も、その国への日本人の高感度を高めるために捨て身のパフォーマンスをしているのであった。

テレビや新聞というフィルターを通さないで、直接・間接に被災地から伝わってくる生の声は、こうした風潮には冷めている。
「しらじらしい」
「聞けば聞くほどむなしくなる」
「いったい何をがんばれというのか」
「もともと、みんな精一杯がんばっている」
「これ以上、がんばれない」
「もう、言わないでほしい……」

たしかに復興のために「経済を回す」といった考えも必要なのだろう。
しかし、経済的低迷を回避するために、いつまでも「がんばろう日本!」キャンペーンを続けることは、心身が疲れている人をさらに追い詰めることにもなりかねない。

災害発生後3カ月が経った。
災害心理学者ラファエルの分類でいえば、当初の衝撃期、蜜月期をすぎて、そろそろ絶望期に入ろうとしている時期と思われる。

絶望して鬱になっている人へ「がんばれよ」ということは、
心に刃物を突き立てるのにも等しい行為である。

そうした知識は、すでに今の日本社会では十分に知られていると思っていたが、こういう社会現象を見ていると、必ずしもそうではなさそうである。

阪神淡路大震災のときには、災害時には生き残っても、PTSDで鬱になり自殺して亡くなった方々がいた。そういう方々も被災者である。
今回もすでに、その兆候は見えている。

皆、失われたものの大きさの実態が見えてきて、復興への道のりの長さが時間されてきたために、絶望して、鬱でイライラしているから、内閣不信任だの何だの、犯人探しも真っ盛りである。

デモンストレーション、プロモーション、パフォーマンスばかりではなく、もっと真の意味で被災者のことを考えるべきではないか。
そしてそのためには、

   やめよう、「がんばろう日本!」