コラム

北欧の惨劇

高度福祉社会で知られる平和な国ノルウェーで起きた、
凄惨な無差別テロ事件。
これは日本の秋葉原事件と紙一重であったともいえる。

紙一枚の決定的な違いは、
オスロの容疑者は動機として政治思想を掲げた、
という点である。

思想や理念があればテロは価値を持つ、
などということはまったくない。

政治、宗教、……崇高に見えそうな動機を
いくら掲げたところで、テロはテロである。
また真の動機は、そんなところには隠れていまい。

むしろ秋葉原事件の実行犯は、
自分が犯罪へひた走っていくときに、
それをいささかでも正当化してくれそうな大義が用意できないことに
自らじれったくも思い、
焦りもし、
がっかりもしたのではあるまいか。

政治を動機にかかげた連合赤軍の末路はすでに見てしまった。
宗教を動機にかかげたオウム真理教の顛末はすでに見てしまった。

……そんな世代にとって、
いまさら何がしかの思想を大義にかかげることは、
無理であった。
意味もなかった。

いっぽうオスロの男は、
流入してくる移民が彼のアイデンティティを脅かし、
「寛容な社会」そのものが敵となった。

なぜ彼自身が寛容になれなかったかが、
そして、どういう育ち方をせざるを得なかったかが、
きっと裁判の過程で明らかになっていくことだろう。

彼は、哲学者J.S.ミルの言葉、
信念ある1人の人間は、
自らの利益しか考えない10万人分もの力に値する
を好んで引用したというが、
「信念ある1人の人間」は、
10万人が考えているような現世的、経済的な利益ではないものの、
やはり彼なりに何か観念的な、非経済的な「利益」を考えている、
形こそ異なれど利益を考えているところは同じである、

……という思考には、きっと到らなかったのだろう。