コラム

JUST There(そこが訊きたい)! 斉藤先生(19)

(前回よりつづく)

――  なるほど、AC概念が普及してしまったから、すぐ「お前もACだろう、何か外傷体験があるだろう」みたいに見られるから、「いや、おれには外傷体験は何もないんだ」ということをかえって声高に主張しなくてはならない人々が出てきたってことですね。

斉藤先生:うん。……たとえば、いま、佐野眞一が書いてる孫正義の伝記があるよね。週刊現代だかポストだかに連載してるんだけど。

もともと孫正義は、日本名が安本(やすもと)って名前だったらしいんだけど、それで安本(アンポン)ってあだ名がついて、いじめられっ子になった、と。

ある意味で平凡な在日のいじめられっ子の少年が、今をときめくあの孫正義になるまでの成長の物語を書こうとしているんだろうけど、やっぱりそこに出てくるのは、幼少体験であるわけで。

幼少体験というのはあらゆる教養小説に出てくる。昔からそうだったし、新しいものではない。ACってのは、それに名前をつけただけの話なのよ。

――  だから「外傷体験があります、まる」で終わったら、何にも意味がないわけですね。

斉藤先生:そう。それをどういうふうに遮断したか、加工したか、というところが大事なわけです。それはその人固有の筆さばきみたいなもので、それがその人の「生きる」ということに費やした筆さばきや色の使い方になるわけだよ。

それをまた、こちらは追視していくことによって、「あなたがこの色をここに乗っけたのは、じつはこういうわけですよね」てなことをいうことを言うのが、私みたいな治療者の仕事ですよね。

だから治療ってのは、非常に微細な個対個の話になっていくわけですよ。それをまたていねいに抽出していく仕事だね。



(つづく)